森林鉄道 大阪営林署滑林道探索 -再訪と余談- END


2020年2月の再訪から時間が経ってしまった。
改めて、山口を訪れた意図だが山口県立図書館で資料の閲覧・調査。資料閲覧で得られた結果は前回の通り。そして終端区間の探索再考と、前回通行をあきらめた日暮支線の探索であるがこちらは未探索に至った。今回のレポートで完結編とし余談多めでエンドとしよう。

さて、今回は1年の変化の記録(と三本杉付近終端部のページを更新)レポートする。

と言っても1年で変化した点と言えば以下の一点くらいだろう。

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初回訪問時に残存していた、当時の橋台に架かる木橋が崩落していた。

1年前の様子はコチラ

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林鉄廃止後に架けられた人道橋は、すでに役目を終えツタが絡んでいた。降り積もった雪の重みか、白アリの影響かは分からないが自然に還ってしまった。

日暮支線のリベンジを目的に訪れた滑林道だが、作業中だったため探索は断念。上流の支線の現状を見ると、大した発見は無いだろうと推測するがまたの機会に訪れることにしよう。


余談となるが、序章に掲載した「徳地てんこもりマップ」に話を戻す。


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「昭和30年代のトラック輸送(大原洞門前)」とキャプションが付くモノクロ写真。序章の通り、災害を機に森林鉄道からトラック輸送へ切り替えに至った。フロント2枚窓のボンネットトラックに大木が載る風景、記念撮影からも樹齢100年を超す杉を伐採したのだろうか。因みに、現代でもボンネットトラックが現役で林業に使われているケースがある。不整地向け6輪駆動のいすゞTWと言う名車が存在し、1986年まで販売されていた。93年まで継続生産され自衛隊などに納入されている。現存台数が最も多いのは岩手県と言われ、今でも林業用として重宝されているようだ。話は逸れたが、写真背後に岩山をくり抜いた隧道が2本続いているのが見える。

1956年に完成した佐波川ダムだが、完成前より存在する国道489号の旧旧道はダム底に沈んでいる。現道はダム下(大原湖)を迂回する形で勾配を緩和しているが、ダム完成前は佐波川の右岸に沿い開通し当時の地理院地図を見る限り隧道表示は見当たらない。モノクロ写真に写る素掘りの2連隧道は佐波川ダム完成後の旧489号となるだろう。


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奥へ向かえば下流の山口市内方向へ。大原湖と別れを告げ、小山を迂回するポイントに隧道はあった。右手ガードレールから一段下がった位置に隧道は現存する。

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地面のアスファルトも落ち葉に埋もれ、現役から退いて長いようだ。長さは20メートル無いくらいだと思うが、岩盤にコンクリートの吹付を施すも劣化で所々痛みが見受けられる。

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隧道をくぐってみる。落石がおっかないが、車通りの無い平和な時が流れる。
モノクロ写真に写っていた記念写真のポイントがまさにここと推測する。


スクリーンショット-(2)

隧道右上の剥がれ落ちた岩盤がまさに一致しており、ここです。観光マップで見た写真の場所を訪れることができ感無量の瞬間!
2本繋ぎの隧道のうち、上流側の1本は現道工事の際に切り崩され残念ながら現存しない模様。

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振り返るともう1本素掘り隧道が現存。両者に言えることだが、トラック輸送の事を考慮しているのか幅高さともに余裕を感じる。

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各地に現存する森林鉄道の素掘り隧道を鑑みると間口が広い、さすがは国道設計なのだと感心するが切通ても良かったのでは・・・?

この後、旧道は山肌に沿い489号に接続。

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ちょうどその付近に立地するのが国指定史跡「野谷石風呂」。
滑森林軌道が廃止される遥か765年もさかのぼる、1186年に掘られたサウナ。ちょっと舐めた解説だが、石風呂が現存し当時の言い伝えが現代に残りるのもまた歴史的価値が高い。

最後に、下流域の治水に貢献した佐波川ダム。河口近くまで下ると西日本の高速道路利用者ではお馴染みの佐波川サービスエリアが立地する。佐波川沿いは徳地の中心地、堀駅から防府駅まで結ぶを防石鉄道が存在していた。1919年開業、1964年の廃止と近代を生き延びることができなかった地方私鉄だが遺構も残り、いつかこのページで紹介できればと思う。

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大原湖と名が付く佐波川ダム。大原は水に沈んだかつての集落名だ。集落は滑林道の起点部分にあたる佐波川と梶畑川の合流地点付近へ移動した。大原郵便局の前を通る道路が旧国道で、徳地町立柚野小学校が通りを上流に進んだ場所に立地する。山口営林署に従事するご子息が通った野谷分校、滑分校などを統合移転し1955年から今の場所に立地しているが2002年に廃校となった。

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防府の町へと続く佐波川を治水する重要なダム。
向かって右側の湖畔を通行できるようになっているのだが・・・

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タモリが名付けた”ワッフル”ことコンクリートスラブを横目にダム堰堤から続く山に穴が開いているではないか!
(ワッフル:いつだったかのタモリ倶楽部参考)

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釣山隧道。1954年に竣工し延長220メートル。
心霊スポットとして、現地の若者から人気を集めているとの情報もある。確かに雰囲気満点だ。頭上の照明が球切れしていなことから管理の良さが伺える。

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上流側開口部。コンクリートの門構から印象が変わって見える。

以下、ドライブレコーダーから抽出した車載映像。




映像からもわかるように、220メートルの長さは圧巻。狭さも相まって一段と長く感じる隧道だった。
ダムの堰堤から容易にアクセスでき、オススメの一本だ。

以上、非常に長い余談となってしまった。

因みに発行された国土地理院地図の過去全編を調べたが、森林軌道の記載表示は無かった。防石鉄道の記載はあれど林用軌道の記載を省略している例はほかにもあり、軍事的に狙われる危険性を考慮したと言う。
徳地てんこもりマップから紐解いた探索ではあったが、記載される路線図と食い違う点があり後日訂正した地図を添付しようと思う。

滑林道から紐解きこの地域一帯、非常に濃い歴史を探ることが出来た。支線に関しては不完全燃焼、資料捜索もやや甘いかもしれないがひとまず山口市徳地の森林鉄道レポートは完結とする。

END


前回

初回


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滑林道の探訪は2019年と20年の2回。ようやく記事を完成させたのが2021年の4月。今回の知見が以降の探索に役立つ結果となった。実は、滑林道を皮切りに九州の森林鉄道の探索を進めている。九州の森林鉄道と言えば内大臣のレポートを多く見かけるが、実際多くの森林鉄道が九州に敷かれたのも事実。私を含めた3名で「超地」を名乗るチームを構成し毎冬に活動を行っている。今後もめんどくさい気持ちと戦いながらも、忘備録としてレポートを残していきたい所存だ。



森林鉄道 大阪営林署滑林道探索 -資料考察- 当時の写真あります!


初回に滑林道を訪れて1年が経った。その間、森林軌道に対する意識は深まり他の路線を訪問する前に、改めて調査をしようと我々は山口へと向かった。

まず、訪れたのは山口県立図書館。
滑林道への理解を深めるべく、森林鉄道の記載のある書籍をチェック。


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国有林の展望 / 大阪営林局 / 1952.03出版

これより、大阪営林局管内の林業環境を伺うことが出来る。戦後復興、人口増加のため建築材料の需要が高まり、林業大繁忙期の記録である。

42-43ページより引用

「土木事業
森林経営がまだ本格的にならなかつた明治の前半においては、比較的地の利をもつ里山ばかりが伐採され、その搬出方法も担出し、駄馬・地曳・川流しなどの原始的な手段に過ぎなかつた。明治の後半に入り、森林の利用と山村の更生のために奥地林を開発することになり、林道が敷設せられた。」

明治の後半より効率を上げるための林道整備に着手したのだろう。山の奥へ奥へと林道を伸ばし、山林管理の範囲が広がって行く。

「すなわち、その最初につくられた滑(なめら)林道(山口営林署)が明治二十七年に竣工し、つづいて同三十二年に恵下谷(えげたに)林道(広島営林署)が、同三十四年には不明(あけず)林道(広島営林署)と八尾林道(大津営林署)および菩提山林道(奈良営林署)などの牛馬車道を解説したのです。」

滑林道の竣工が明治27年、西暦1894年。大阪営林局管内の初めての国有林林道であり歴史ある林道であることが分かった。

「高野山国有林の直営生産事業も、明治三十八年に高野林道の幹線として椎出から塵無を経て二六林班に至る木馬道と、椎出から九度山土場間の仮軌道が設けられた時からはじまつている。」

高野山国有林の一部区間に敷かれたレールこそ、大阪営林局管内初めての森林鉄道だったことが伺える。この当時は鉄道花盛りで、神戸-下関間の鉄道全通が1901年の事である。

「明治三十九年、現在の九度山貯木場が竣工し、椎出九度山貯木場間の森林鉄道が完成した。つづいて幹線木馬道がしだいに森林鉄道に改められ、二六キロメートルの森林鉄道が完成した。
そののち、他の営林署において新線が開設さられるとともに、それぞれ馬車道が森林鉄道に改められたものもあつた。すなわち滑林道が明治四十二年、恵下谷林道が大正十五年、不明林道は昭和四年に改修された。」

滑林道の森林鉄道改修は1909年のことであるようだ。序章に登場した”徳地てんこもりマップ”の情報はこれで解決。どうやら本当に明治42年開通の森林鉄道だったらしい。西日本でかなり初期の段階に開通した森林鉄道で、廃止も1951年となれば、およそ42年間と長期の活躍を果たしたようである。余談ではあるが、鹿児島県の(旧:古江線→)大隅線が全線開通し、廃止されるまでの間はなんと15年である。いずれレポートしようと考え中だが、特に1972年に延伸開業した海潟温泉-国分間のトンネル・高架橋の作りの良さは一級品の高規格路線である。話がそれてしまった(脱線)。

「戦後は直営生産の製品をなるべく市場近くまで搬出することが有利となつたので、貯木場を整備して自動車運搬をすることになつた。そのため自動車道が新設されるとともに、古くからの森林鉄道もしだいに自動車道に改められるようになつた。恵下谷・不明・滑の三林道がこれである。前二者は従来森林鉄道で途中まで運搬し、水内川の水利によつて広島まで輸送していたのであるが、この地方の道路網の発達によつて森林鉄道の価値がなくなつたからである。つまり林内より一工程で運搬するのはあらゆる点で有利なことが明らかである。
最近の林道工事の特色は、利用される森林が奥地へすすむにつれて路線の伸長とともに地形が険しくなり、勾配がきつくなつてきたことである。これまで急勾配の場所はインクラインで運搬していたが、これは比較的能率的ではあるが建設費がかさむことと移動不可能の欠点があつた。現在はこれにかわる方法として架線索道、特に自重式による簡易無動力式のものが採用されている。これは移動性があることと設置費用の安いこと、さらに運搬能力も相当に高いので、今後もますます発達し普及するようになると思われる。」

自動車輸送への転換である。滑林道は、大規模な水害が原因で廃止となったのが少々特殊な例ではあるが、遅かれ早かれ自動車輸送への転換は行われる時が来たであろう。
「国有林の展望」には、貴重な写真が掲載されており、森林軌道はもちろんインクラインや索道などの活用風景が記録されている。出版された時点で、索道は画期的だと書かれているが当時からの現役林業索道は皆無だ。現在、現場で活用されている索道は仮設型で、撤去を前提とされている。


次の資料に移る。


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徳地町史 改訂版 / 徳地町役場 / 2005.09

徳地町史の2005年改訂版である。今回、山口市徳地総合支所徳地地域交流センターより、当ブログにて森林鉄道の項の掲載許可を頂いている。出版元に感謝申し上げたい。

327-330ページより引用

「6国有林
省略
(3)林道及び歩道
滑川に沿う林道・軌道幹線は明治二十七年に起工開通したもので、利用の増加につれ拡張され昭和十年現在の林道は次の通りである。」


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昭和10年の林道データだ。
これから察するに、やはり川に沿って分岐した支線には名前が付いていたのだろう。林野庁が公開するデータに記載されているのは、”滑林道幹線”これは幹線という書き方はされていなかった、”日暮線”、”密成線”これは昭和10年の時点で木馬道扱いとなっていたようだ。


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図の下に掲載されているのは「森林軌道の視察風景(野谷、大正末期カ)」とレールが見えた写真である。この時点で馬車軌道による材木輸送を実施していたようである。野谷とあるので、森林軌道終点の貯木場付近のことだろうか?

徳地町史からは支線名を知ることができ、個人的には大変な収穫だったと思う。


さて、現地でチェックすることのできた最後の資料がこちらである。


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「國有林ト公有林野官公造林地 / 山口営林署」昭和六年山口懸営林舎寄贈

となる絵葉書である。絵葉書の著作権保護期間はすでに終了していることから、山口県立図書館の収蔵品としてここに公開することにする。全8枚の構成である。


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「字滑山國有林軌道運搬ノ實景」

大変貴重なトロッコ現役の風景である。
まず、場所の特定から入ろう。川沿い、分岐する路線が写っている、進行方向が向かって左側へ下っているなどがヒント。川の右岸を走っており、分岐していく路線はその川を渡っているようだ。家屋が建っているため集落が近い。そして背後の山の落ち方が特徴的だ。背景のヒントを頼りに考えると野谷の集落、現在「祖父橋」が架かる付近を写したのではないだろうか。


スクリーンショット-(208)

背景の山の特徴と、集落の雰囲気、川沿いを行く森林トロッコの恐らく当時の石垣なども残っており、私の答えはここだと考える。じゃあ、上流から分岐してきた路線はなんなの?!ほかの地域の森林鉄道にもあることなのだが、林業従事者が住む集落へ直通する支線なのだろう。もちろん、当時は自動車道が整備されているわけでもなくあるのは軌道のみ。通勤と言うか、現場へはトロッコへ乗って山へ上がったり下ったりの毎日だったわけである。

それで、トロッコは機関車無し?大木の自重で下らせてたのかなー?奥左の立っている人は長い棒のようなものを持っている。そしてトロッコの後ろ車輪付近から斜め向きに延びる棒のようなものが写っている。これがブレーキなのだろう。トロッコ右手前の人はブレーキから伸びるワイヤーを握っており、これで制御していたのだろう。また、このトロッコに積まれる荷物にはそれぞれ札のようなものが付いており、生活物資が届けられていたのだろう。

そもそも、昭和6(1931)年と馬車道から森林鉄道へ改められた直後の風景であるため後々、機関車などを用いた効率化が成された可能性は高い。森林鉄道開業して間もない貴重な風景として捉えよう。写真が残っていると言う点も興味深く、この当時の写真はガラス板写真とロールフィルム写真の転換期にあたる。写っている写真の雰囲気を見ると、三脚を据えた大判カメラでの撮影のように思う。

森林鉄道に関する絵葉書は一枚のみで、あとは管内の風景写真だ。


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「字滑山國有林 舊藩杉扁拍造林地 (林齢百三十年)」


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「字滑山國有林 舊藩椎造林地 (林齢百三十餘年)」

この二枚写真から大判カメラで撮られたのではなかろうかと推察する。林内は非常に暗く撮影環境には三脚必須である。また当時の感光乳剤は感動が低かったため露光時間はかなり長かったのではないか。良い写真である。


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「字滑山國有林 三十一林班外一林相」

以上が滑山国有林に関する絵葉書である。
残りの解説は控えることにし、参考程度に掲載しておくことにする。


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山口営林署管内の山林風景絵葉書は、以上。
撮影はいずれもタカス氏(@slagheap_tcs)


年代継ぎはぎで、末期の森林鉄道の状況が伺えなかったのが残念である。林鉄の軌跡 大阪営林局管内の森林鉄道と機関車調査報告書/ないねん出版 に山口営林署の図版が載っているようなのだが、昨今の事情もあって図書館での確認を今まで行えていない。また、当時の林業関連誌などに記載がある可能性があるためその調査もいずれ行いたいと思う。


次回は、滑林道の関連施設と再訪の記録である。


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引用
国有林の展望 / 大阪営林局 / 1952.03出版
徳地町史 改訂版 / 徳地町役場 / 2005.09
國有林ト公有林野官公造林地 / 山口営林署 / 昭和6年




森林鉄道 大阪営林署滑林道探索 -本線区間8- 確信できない支線末端


支線の終端と思われる三本杉付近まで探索したところで、およそ5kmほど引き返し、再び梶畑川と滑川の分岐点まで戻ってきた。ここからは、梶畑川沿いに伸びている支線の探索を続ける。実は、この時点で17時前と時間がひっ迫しており急ぎ足で探索している。


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戻ってきた分岐点。向かって左が滑川、三本杉方面。右側はこれから進む梶畑川沿いの支線方面だ。


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野谷集落から続く舗装路であり、路肩には石垣が並ぶなど恐らく当時からの痕跡が残る。
梶畑川を一度渡るのだが、残念ながら橋梁の痕跡を見つけることはできなかった。


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現れる森林鉄道と市道の分岐点。この道を直進すると滑林道、右に分岐していくと県道26号方面と夜間に走ればトラップに引っかかりそうだ。右方向の道の先には集落があり、当時は分岐した先にも線路が伸びていたのかもしれない。


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軌道上から振り返る。なんとなく、当時の雰囲気を感じることができるのでは?
左に写る看板は、ここでも発見!古レールである。


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最新の幅員狭し標識と、注意標識のCollaboration!新標識の支柱に古レールが針金で固定されており、今しばらくは現役を保ってくれるだろう。発見できた古レールは何本目だったかな?

では先に進むとしよう。


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いかにも、森林軌道っぽい雰囲気だ。左側には石垣で段差が作られている。心強い轍だが、毎回この道を車で進んで大丈夫かなと心配になるものである。

再び梶畑川を跨いだのだが、橋梁らしき痕跡を見つけることができなかった。


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梶畑川を左手に山を上る。川沿いの未舗装路と言う光景は今日一日何度見たことだろう。私見なのだが、森林鉄道にしては少し道幅が広いことから、軌道廃止後に拡幅したのではなかろうかと思う。


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別の支線で見た古レールの側溝をまた見ることが出来た。標識の支柱になってるレールよりは太い気がするのだが、規格が違いそうだ。


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ある程度林道を走った所、現林道の分岐点に辿り着いた。
その付近を見ると道路沿いに茂った平場が見える。たぶん、ここがトロッコの積み出し場だったのではなかろうかと推測。藪で何も見えないが、太い木々が生えておらず林道に対して水平なところからここじゃないかな~?たぶん、ここが終点でしょう!?


大阪営林署滑林道の探索記録はひとまず以上となる。
今回の探索で目立つ遺構は、コンクリート橋脚と橋台、石積み橋台、古レールがおいしい物だろう。廃線から半世紀以上が経った今も、遺構が現存するというのは大変ありがたい話である。一部区間を除いて道路転用されているため、軌道跡の痕跡を辿ることはかなり厳しかった。森林鉄道は山林の伐採が終わると、山を変え支線を延ばしたりすることがある。つまり、開業年度は一概に同じとは言えず、廃止年度も同じだ。レールを回収し、別の線路に転用することもある。そのため、遺構の残り方は路線様々なのだと思われる。


次回は、2020年2月に滑山を再訪した記録から始めるとしよう。


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森林鉄道 大阪営林署滑林道探索 -本線区間7- 目指すは三本杉



 再び分岐点へと戻ってきた我々は、三本杉方面である滑川に沿って山を登って行く。前回述べたように、時間があまり無い。


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 前回は向かって右側へ、滑川を渡り山の中腹まで行き引き返した。今回は直進する。


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 しばらく走ると、注意標識を発見。昭和25年から昭和46年までのデザインだろう。この標識、何に注意すべきか自身が語ってくれている。


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 注意すべきは...古レール出ました!か弱い赤錆びた古レールが標識の支柱として再利用されている。密成支線で見つけた、地面に刺さり突っ立つ古レールも同じく標識の支柱として利用されていた可能性が高いだろう。


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 徳地てんこもりマップの記載通りであれば、ここも分岐点であろう。左に分岐し、右は滑川沿い三本杉方面となる。残念ながら分岐した先は伐採作業中のカラーコーンがあり立ち入りは遠慮させていただいた。別日に徳地方面へ訪れる機会があったためこの分岐へと踏み入れてみた。写真は無いが、森林軌道には少々勾配がキツ過ぎるのではないかと言うほどの上り坂の林道が待っていた。おそらくだが、当時の軌道は分岐してほとんど進まず、少しの位置で終わっていたのだと推測する。


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 ここで気になったのが地面だ。四角く切られた岩が埋まっている。土留めか?先述の分岐点にあたり、豪雨の際に林道が川となってしまう。分岐先から流れてきた雨水の水流で地面が流されてしまうのを防ぐために、ここに石を埋めて土壌流出を防いでいたのではないだろうか。


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 分岐から三本杉方面へと上って行くとすぐに川を渡る。名称不明だが、この川は滑川へと合流する。この橋はコンクリート製で、橋梁も橋台も後年設計のようだった。


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 しばらく走るとなぜか舗装路へ切り替わった。段々と勾配がきつくなってくる。カメラは下り方を向いている。


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 地面に注目すると…


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 また発見、古レールだ!溶接加工され、側溝の蓋へと転身していた。しかし、標識支柱とは違う太めのレールだ。刻印を確認しなかったのが悔やまれる。


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 とうとう滑山の目玉である三本杉まで到達した。遠目から見ても、これだろうなと見極められる圧倒的サイズだ。探索シーズンは緑の元気がない時期だったため迫力に欠けるが、夏場は数倍大きく見えるだろう。


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 探索レポート初回にてお伝えした、微妙な三本杉へのアクセスマップから、ようやく真の案内看板へと辿り着いた。詳細は看板を読んでいただきたいが、平安末期、東大寺再建の時から歴史のあるこの地に、樹齢推定300年の杉が三本寄り添って立っているとざっくり要約できる。


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 真下へ来ると圧巻のサイズだ。平成13年の時点で、高さは最長46m、周囲も最大510cm。この三本杉のすばらしさに、インスタLIVEなど配信を希望する方々が現れるかもしれない。しかし残念無念、ここは圏外の深き山奥なのだ。


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 それで、三本杉から元来た道を見てみると、石積み発見!


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 石積みを辿ると、三本杉の周囲へアクセスする橋のふもとまで続き、石積み橋台!


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これは徳地てんこもりマップの記載にはない事実だが、軌道はここで川を渡る。

2020年2月探訪から追記

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川を渡ってさらに上流へ。右に見切れているのが三本杉。
まもなく終端部となる。



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 走ってきた林道は一度軌道と離れるが、川を渡って再び軌道跡と合流する。

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上って来た軌道はここ終端部を迎えたと推測。スイッチバックし赤枠で囲まれた終端部にトロッコを留め置いていたのではなだろうか。

せっかくなので先へと続き林道を進み、この先の登山コース入口へアクセス。


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同行する蛸酢氏に倒木をどけてもらいながら進行。ここはもう森林鉄道の線区ではない。


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 登山道の看板が設置されている。滑松と言うのは、ここら周辺に自生する松の事のようだ。これにて滑川沿いの探索は終了とする。

 道路転用されたため、これと言ってビッグな遺構は見つからなかった。しかし、見落としそうになる小さな発見がいくつか拾えたのが幸いだった。特に路線図は正確な地理院地図からデータを引っ張り出し確認する必要がある。


 次回は、かなり引き返し梶畑川の分岐に戻り再スタート。滑森林軌道の探索レポート最終回となる。


前回

次回



森林鉄道 大阪営林署滑林道探索 -本線区間6- 鬼ヶ河内支線(自称)を行く


 前回の区間まではストリートビューで事前の調査が可能となっている区間だ。ここからは未知のゾーン、オフロードの始まりである。オフロードと言ってもそこまでハードな未舗装道ではなく、フラットダートで四駆乗りとしてはやや物足りない。道の良さは管理の良さであり、さすがは国有林だ。

 滑の簡易トイレが設置される分岐点から始める。左へ行けば滑川沿い、右へ行けば鬼ヶ河内川沿いだ。支線名は登録されていないようなので、通例に基づき鬼ヶ河内支線と勝手に名付けよう。ちなみにこのトイレはバイオマスタイプなのだが、シャッターが閉ざされていた。急を要する場合にはふれあいパーク大原湖まで川を下る必要があるため注意してほしい。


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 ストリートビューで訪れていた時からこのポイントが妙に気になっていた。左側の道へ直進すれば三本杉方面となる。右へ曲がって行くと鬼ヶ河内支線へと進むのだが、何か見えませんか?


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 川を渡るため、岸と岸を結ぶ一本の道、橋が架かっているのだ!枯れたツタが絡まり、アクセスは困難、足場の状態も見当がつかなかったため渡らなかったのが悔やまれる。自動車道は少し奥でカーブし川を渡っている。


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 もしやこの橋、当時から架かっているのでは?!ストリートビューで見たときは、PG(プレートガーター)のように見え、この遺構を見つけてしまうとかなりの大発見なのではないかと興奮していた。さて、当時からのPGなのか?と言う問い。答えはNOだ。現地に行って目の当たりにして、全貌がよく分からない構造である。素材を見る限りおそらく木橋だ。まあ、当時PGだったという根拠もないので、当時から架かっている木橋では?とも思ったがそれも違うだろう。1950年代の鉄道用木橋は写真でしか見たことないのだが、この写真のような構造では少なくともない。構造が新しいのだ。木材と金属のハイブリッド構造で、踏板はトタンのように見える。


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 古くからの橋では無いと言うことが分かり落胆したわけではない。石積みの橋台は間違いなく森林軌道時代の遺構だろう。車を止めている場所が分岐点。現在はレベルが高くなっているが、そこから藪の部分でカーブし橋を渡っていたのだろう。当時、橋が架かっていた場所に今でも橋が架かっているという変遷が見えるこの区間は、何とも胸が熱くなる光景だ。しかしなぜ橋を架け直したのだろうか。


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 滑川を渡り、山へと進む。写真は下流側、橋を渡った先の部分を写している。橋の先は写真の通り、私有地となっている。


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 先ほどの写真から引くと、おそらく軌道に沿って積んでいたであろう石垣が残っている!綺麗にカーブを描き、土盤を支え続けているのだ。現在の林道は少々レベルが上がっている。


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 さて、少し引き返すが先ほど森林軌道が渡った滑川の先で自動車道も滑川を渡る。その橋梁が林道らしい構造をしている。写真手前はほぼ直角に曲がるきついコーナーで、歩道のように橋が外へせり出している。これは木材を満載にしたトラックが曲がる際、リアオーバーハングが引っかからないよう設計した林道らしい工夫である。


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この道路沿いの側溝でも古レールを見かけることが出来た。計測していないので、はっきりは分からないが15kgレールか?


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 この地は人の気配が無く、少々気味が悪い。空き地が広がるが、最近まで何かしら大きめの建物があったような形跡がある。

 実はもうこの時点で15時前とかなり時間が無く焦っていた。この先はかなり軽度な探索となっている他、あまり写真もない。


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川に沿って進む林道は所々、石垣が残り緩やかな勾配がそれっぽさを醸し出していた。


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幾度かこのように開けた場所がある。


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まだまだ登る。
川沿いをしばらく走り、広場が現れた。下流の方にカメラを向けている。


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 「ニッセイ徳地の森」の看板があり、日本生命が2002.3.25~2081.3.31を契約期間に植樹運動を実施しているようだ。

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さらに登ってみたのだが、どこが終着なのか分からなかった。明らかに鉄道では登れなさそうなヘアピンカーブが現れたため、そこで引き返すことに。


 次回は、分岐点へと戻り三本杉方面へ。


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次回


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